人が集まると場所ができる。人がいなくなれば、その場はなくなる。
かけがえがなくてはかない場所もあれば、愛しているけれど2度といきたくない場所もある。

東京という場所を、そこで活動する全ての人の劇だと見ると、僕にはそれが美しく見えてたまらない。巨大なアリ塚や、ドブネズミの群れのようだ。

「東京であなたに会いたいです。ずいぶん難しいことになってしまったけれど。許してもらえたらと願っています。約束をしましょう。」

KISHII Daisuke 2012 03

詳しくは⇒

2012年03月25日

演劇を迂回しない。

前回のエントリーで、演劇を迂回する、と書いた。けど、ラストまできて、やはり演劇こそ問題と考える。

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アーレントは、アクト(活動、演技)の意味はアクター(活動者・俳優)の正体暴露だという。私も、演劇・活動にたちあうのは俳優・活動者がわれ知らずにだす正体を味わいたいからなので賛成だ。
演劇に接する機会がなくてわかりにくいという人は、たとえば、絵本の読み聞かせを考えてみてはどうだろう。言葉の意味がわかる前から(むしろわかる前の方が)こどもは必死に聞く。内容を聞いているんじゃない。この人は誰であるかを見ているのだ。
他人からは明白な、その人が何者であるかは、本人にはわからないものだ。だから、自己表現を目指すと嘘になる。むしろ、フィクションを(嘘を)、懸命に読んだ(ついた)ほうがいい。それで、その人が誰かが示される。それが正体暴露だ。
俳優はよく「自分は演出家や戯曲のメディアである。自己表現しているわけではない」という。活動家も同様「他者の問題を代理しているだけだ」という。俳優や活動家ほど、周りからはその人本人を見られる人はいないと思うのだけれど。彼ら・彼女らは、自己表現をしていないと考える事で、自己を表現するのだ。騙すための嘘ではなく、正体を示すための騙りこそアクション(演劇・活動)におけるアクト(演技・行為)の目的である。

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僕は、戯曲や、活動計画や、絵本の内容は、俳優と観客、活動家と社会、親子、の、邪魔をしなければいいのだ(それだって、相当面白くないといけないけれど)と考えるので、僕にとって、劇作をすること(戯曲を書いたり、活動計画をしたり、絵本を書いたりすること)は、アクターが正体を表すためのメディアを作っているにすぎない。僕は俳優の正体を見せるのを邪魔しないために書く。これもひょっとすると僕がわれ知らずに自分の正体を暴露する構えなのかもしれない。
劇作家と俳優という歴史的分業は、お互いがメディアであると思い合うことによる、活動の暴露的性格を維持するための形式なんじゃないか、と思った。

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ところで、音読する快感。
意味を伝えるためでなく、ただただ、そこに書かれた言葉に身をゆだねる快楽は、演劇の基本だ。このとき、その人は花のように現れる。書き写すだけでもいい。書道とか、まねぶ快楽に身をゆだねることが暴露してしまう本人。
アーレントと九鬼のテキストを、BOTにするためにうつした。読み聞かせと同じ感覚がこれだけでもあった。自分が選んだ部分に線でも引いて、入力はお願いした方が賢明なんだろうけど、打ち込みこそしたい。これは演技であるらしい。
とすると、僕の正体は暴露されているのだろうか。ツイッターで他人の言葉をつぶやくだけで?
おそらくそうなのだし、だからこそ演劇なのだろうと、途中で気がついた。
が、演劇の伝統にのっとり、私はアーレントと九鬼のメディアである、と言い張ることにしたい。

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グーテンベルク以前、厖大な書写が思考を伝えた。内容と伝達の連鎖=物語と演技が暴露していった沢山の主体の物語。
必死に内容と伝達相手に奉仕することで主体は現れ続けるのだ。


posted by 九鬼ーアーレント at 02:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月20日

芸術と演劇を迂回する

九鬼とアーレントは芸術の捉え方が違う。

例えば、九鬼は「芸術は現在を、学問は過去を、道徳は未来を扱う。宗教においては永遠ということが中心になっている(『文学の形而上学』二)」というが、アーレントなら、芸術は永遠、現在には演劇が入るだろう。

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繰り返すが、アーレントは、人の営為を、活動的人生の「労働」「仕事」「活動」の3つと観照的人生の「思考」に分けている。

九鬼は(も)、人間をしばしば3つの相で捉える。
例えば『人間学とは何か』では、「自然的人間」「歴史的人間」「形而上的人間」に分ける。
このうち、「形而上的人間」は「観照的人生」を指す。
で、「労働」はほぼ「自然的人間」に入る。
「歴史的人間」は、カントの自由意志(歴史を作る)をもった人間のことだ。なので「活動」はほぼこれに入る。
だから、仕事がどうなるのかが問題だ。

***

労働と仕事を分けたのはアーレントのオリジナルである。「私が主張している労働と仕事の区別は、普通に認められているようなものではない。(『人間の条件』11)」
九鬼の方は普通に認められているものの紹介だ。こういうとき彼は、いつも東西から例を挙げ、自説を補強する。楽しいので『人間学とは何か』から表にする。

九鬼      自然的人間 歴史的人間 形而上的人間
ビラン     動物的生活 人間的生活 精神的生活
パスカル    身体    精神    愛
アウグスチヌス 肉体にて  自身にて  神の許
アリストテレス 情欲    意気    理性
インド数論派  5大元素  我慢    覚
朱氏      気質    気質の性  本然の性
カント     生理学的  実用的   叡智的・超越論的

仕事がどうなるのかが問題になるのは、九鬼との関連に限ったことでなく、アーレントの問題といえる。哲学全体とアーレントの比較が必要だ。私の手に余る。
ただ、九鬼とアーレントを芸術の問題に限り出会わせることは可能だと思う。


いかなる有用性もなく、交換もされず、貨幣による平等化を拒んでいる対象物がある。交換市場に入る場合でも、勝手に価格がつけられているだけである。いうまでもなくそれは芸術作品である。
芸術作品にふさわしい扱いというのは、もちろん、それを「使用すること」ではない。それどころか、芸術作品にふさわしい場所を与えるために普通の使用対象物の文脈全体から注意深く切り離しておかなければならない。
芸術作品の無用性は、固有のものであるのか、それともかつては人間の宗教的欲求に応えたものであったのかは問題にしない。芸術の歴史的起源がもっぱら神学的性格のものであったとしても、事実は、芸術が宗教や呪術から分離して立派に存続してきたということである。芸術作品は生きているものが使用するものではない。(『人間の条件』23)


アーレントが「仕事」という概念を作ることで救済したのは芸術ではないか。アーレントは仕事を「物になった永遠に代わらないイメージ」と捉える。で、使用されないで、自己目的的で、際立って「世界」であると芸術をとらえる。
カントだと芸術は啓蒙のための梯子になるし、プラトンだと芸術家は自然を模倣する詐欺となるだろう。九鬼も含め、芸術に賛辞を惜しまない哲学者たちの哲学的定義より、アーレントの言う芸術は重く、率直で、正確に思える。それは、彼女が仕事(work)概念を提出したからだ。

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九鬼は「技術人は自己保存を目的とする自然的人間であるとみて差し支えない」という。しかし、続けて「技術が学問と深く内的に関連する限り、自然的人間としての技術人の考察が歴史的人間としての叡智人の考察から分離しえないことも事実である」「エピクロス的大伴旅人的自然的人間は、一方にベーコン的平賀源内的実証主義者であると共に、他方に西行的ノヴァーリス的ロマン主義者である」といい、情緒とロマン主義を接続する。
九鬼は、アートを、アーレントの言う「活動」と「労働」においてみているようだ。一見西洋の伝統に即しているようで日本的な道徳や美意識を前提とすると思う。耕地のような、巨大なアリ塚のような、永遠に地震にめげないことを前提としているような。
それは例えば「いき」である。いきは、あきらめと意気地でもって、労働と活動の頼りなさに対抗する。よって、いきの象徴は芸者の所作である。苦界にあっても美を保つように、自然的人間と歴史的人間は合一する。
一方アーレントは、永遠のイメージを、物にする仕事を考える。例えば哲学のイデアは、仕事からの類推で考えられた、と整理した上で、芸術こそ物体化したイデアである、というのだ。

九鬼において芸術は現在の偶然への驚きである。アーレントならこれは活動というだろう。とするならば、九鬼は芸術を全て演劇であるといっていることになるのだろう、と思う。

***

この話は、どうしてもボット製作以上の研究的態度を必要とする問題なので今は離れます。ただ、必ず戻ります。必ず、と言えるのは、僕のカンパニーPLAYWORKSは、「いき」などのようにplayし、「仕事」のようにworkすることが、演劇じゃないかと感じているからです。
両者の谷間を覗きこむところに、劇作概念はあると思う。

だから、この話を続けると、アーレントでも九鬼でもなく、僕の話になります。
今は迂回します。

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それにしても、3×2で見る伝統こそ、この2人繋ぐ。おかげで隙間が見えやすい。
3×2がハイデガーからなのか、西洋哲学からなのか、なんなのかもいつか考えたい。
posted by 九鬼ーアーレント at 14:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月07日

耕地東京

「魚のさばき方は魚が教えてくれる」
日本人にとっては比喩ではない。もちろん比喩だけれど、日本人にとっては比喩ではないのだ。
「畑を人間の都合に合わせるな、畑の都合に合わせろ。」
日本人にとっては教訓ではない。真実なのだ。

***

「ずっと続くとみんな思っている、
 心休まる建物、家があって、
 中で、命がまもられ、
 外で、他人と出会う。

 わたしの家の田んぼは、
 家の一部だ。
 だから、
 食べる予定がなくても、
 汚染され食べられるお米がなくなっても
 私は田んぼを耕します。」

でも、きっと続かないよ、とアーレントなら言うだろう。
そして、日本人は耕し続けるだろう、と九鬼は笑うだろう。

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アーレントが世界 world って言葉を使うときにイメージしているのは、上記の家のようなものだ。人が安心して住める、イメージに裏打ちされた住処を全部足すと世界になる。イメージは物体と違って、永続するから、人がイメージに合わせて世界を修す限り、永遠に続く。

ところで、セカイ系、というときのセカイは、アーレントの世界とは違う。地球とか宇宙とか、人の住処より規模が大きい。自然物全てだ。日本語の世界というのは、つまり宇宙だ。象徴か現実か?なんて話は齊藤環さんあたりにしていただくとして、宇宙=セカイと、日本人は田んぼのように星空さえも眺めらているんじゃないかと思う。生成流転の自然を家の一部とするということだ。

「ホーム スイート ホームは、月の裏側・海の底」

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日本の職人は、イメージを自然から教えられるという。
眼を凝らせば、自然が正解を教えてくれるという。
自然全体をも人間が作ったとみているからだろう。

東京はイメージに従って作られてはいない。
しかし耕地のように作られてはいる。
鷗外が普請中というのはそういうことだろう。

posted by 九鬼ーアーレント at 03:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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